有名なギター作曲家

古典期

1.フェルナンド・ソル Fernando Sor (1778-1839)

 18世紀末から19世紀はじめにかけて活躍した ソルは 「ギターの ベートーヴェン、あるいは モーツァルト」 と言われる存在です。

 5才の頃から ギターや ヴァイオリンを奏き始め、アルバ公爵夫人などの庇護も受けながら、オペラ、交響曲など様々な ジャンルの作曲をしたそうです。 パリや ロンドンにも住みながら スペイン、ドイツ、ロシアなど各地で活動し、特に ロンドン時代の名声は大いに上がったとのことです。

 イギリスにおける ジュリアーニとの芸術的対立や パリでの アグアドとの心暖まる交友などが知られていますが、晩年は貧困、病苦、愛娘の死など悲惨だったようです。

有名な作品

「モーツァルトの主題による変奏曲」
「グラン・ソロ」

「幻想曲」
「月光」
「メヌエット 第5番」
「メヌエット 第6番」





2.ディオニシオ・アグアド(1784-1849)

 マドリッドにおいてバシリオ神父にギターを学び,やがて実力をつけたアグアドは練習曲集及ぴギター教本を出版し,教育家としても高い評価を得るようになった.1825年にパリに出て活動を始めた際,ソルとの出会いがあり,友情を深めることになる。ソル作曲の有名な二重奏曲(二人の友Op.41)はアグアドと弾くために作曲され,第2ギターの下にはアグアドの名が言記されている。1838年故郷マドリッドに戻り,教育家として尊敬されながら終止を過ごした。

有名な作品

「華麗なるロンド」
「序奏とロンド OP.2-2」


3.マウロ・ジュリアーニ Mauro Giuliani (1780-1840)

 イタリア・ボローニャに生まれ、幼い頃から才能を発揮し、20才頃には イタリア第1の ギタリストの地位を得ていたといわれたそうです。 30才近くの頃から ウィーンに定住し、ベートーヴェンや シューベルトなどとも交友があったそうで、晩年は ボローニャに帰りましたが、ロンドン滞在の時に ソルと楽風の違いから、ソル派・ジュリアーニ派と別れ対立し、ソルの死の翌年、 ウィーンで亡くなりました。

有名な作品

「華麗なるソナタ」
「大序曲」
「アレグロ・ヴィヴァーチェ」
「ヘンデルの主題による変奏曲」



4.フェルディナンド・カルリ Ferdinand Caluli (1770-1808)

 フェルディナンド・カルリは、1770年にナポリに生まれたイタリアのギタリスト&作曲家です。
学者の父を持ち、牧師から音楽理論とチェロを学び、後にギターを手にするようになったといわれます。

  彼は独学でギターを学び、1808年にパリに出て300曲以上の曲を遺して1841年にパリに没しました。
曲からもわかるようにかなりの演奏技術を持っていたと想像されますが、二重奏曲やヴァイオリンなどとのアンサンブル曲も多く、最も有名な曲はやさしい練習曲集です。

有名な作品

「ソナタ」
「練習曲」


ロマン派

4.ナポレオン・コスト(1800-1883)

 フランスに生まれ、軍人の家庭に生まれたが,11歳の時に重病にかかり長い療養生活を送ったため進路を変え,ギター愛好家であった母親の影響を受けてギタリストの道を歩み始めた。そして18歳頃にはすでに教授,演奏家としての実力を備えていた。その後当時多くのギタリストが集うパリに出て,そこでカルッリ,ソル,アグアド,カルカッシなどの名ギタリスト連と知り合ったが,中でもソルに心酔しその教えを受けた。
コストは7弦ギターも使用したので,7弦用のギター曲も残っている。

有名な作品

「舟歌」
「25の練習曲」
「演奏会用ロンド」




5.ヨハン・カスパル・メルツ (1806-1856)

ハンガリーに生まれた。メルッの家庭は裕福でなかったため,独学でギターとフルートを学び,20歳からはその両方で教授をしながらさらに研鑚を積む。1840年ウイーンに出て演奏会を開いたが,その卓越した演奏は高い評価を得,ウィーン宮廷ギタリストに迎えられ,恵まれた生活を手にした。1846年以後は持病の神経痛に悩まされ,回復後に開いた演奏会は成功したものの,オーストリアの暴動やハンガリーの革命に会って貧困に喘ぐなど,波瀾に富んだ生涯を送った。またメルツは10弦ギターを使用したことでも知られる。

有名な作品

「ハンガリー風幻想曲」
「吟遊詩人の調べ」
「エレジー」
「ロマンス」



6.ジュリオ・レゴンディ(1822-1872)

イタリア生まれでパリにおいてソルとカルカッシに影響を受けた。ギターとコンセルティナ(アコーディンみたいなヤツ)の奏者であり作曲家でもある。同時代には周囲に偉大すぎる音楽家が多かったために目立たなかったといわれる。

有名な作品

「夢」
「ロンド・カプリス“村の祭り”Op.20」
「序奏とカプリス」


近代

6.フランシスコ・タレガ Francisco Tarrega (1852-1909)

 スペインの ヴァレンシア州の貧しい家に生まれ、8才の時に マヌエル・ゴンサレスに最初の ギターの指導を受けて以後、マドリット国立音楽院を卒業。 スペイン はもとより パリ、ロンドン等にも演奏活動の幅を広げたそうです。

 彼は ギターの作曲、演奏の両面で徹底的な改革を行い、左手の運指法、右手の弾弦法、色彩の豊富な変化等、今日でも彼の影響を受けていない者はないとのことです。

有名な作品

「アルハンブラ宮殿の思い出」
「アラビア風奇想曲」
「グランホタ」
「タンゴ」
「アデリータ」
「ロジイタ」
「マズルカ」




7.イサーク・アルベニス Issac Albeniz (1860-1909)

イサク アルベニス (1860-1909)は、スペインのカンプロドンに生まれたピアニストであり、近代国民学派の作曲家である。彼は幼き頃より、天才ピアニストとしてその名声を博し、「スペインのリスト」と呼ばれるほどであった。ピアノに背を向けて弾いたとか、逆立ちして弾いたとか、そういった類の逸話が残されている。アルベニス自身はカタロニャ人であるにも関わらず、自ら「私はムーア人だ」と呼ぶほど彼の作品は、カスティヤ地方の香りを残している。作曲家としては、民族楽器のギターの特性を取り入れたピアノ作品「スペイン組曲」、「組曲旅の思い出」を残している。タルレガによってギター独奏用に編曲された自分の作品の演奏を実際に聴いた時、アルベニスはオリジナルのピアノ曲よりギター曲の方が優れていると語ったという。

有名な作品

「アストリアス」
「グラナダ」
「カスティーリャ」
「アラゴン」
「コルドバ」
「カディス」
「セビーリャ」
「タンゴ」
「入り江のざわめき」
「朱色の塔」
「マジョルカ」




8.エンリケ・グラナドス Enrique Granados (1868-1916)

グラナドスはアルベニスと同じくカタルーニャ地方の主要なまち、レリダ( Lerida )に生まれました。1860年生まれのアルベニスは早くから各地を飛び回っていましたが、彼にはアルベニスのような放浪癖はなく、バルセロナ音学院に入学してピアノを勉強しました。ここを16歳で首席で卒業したあと、アルベニスと同じくフェリーペ・ペドレルのもとで教えを受けたのちパリへ留学し、パリ音学院のシャルル・ド・ペリオーのもとで2年間研鑽を積みました。

そして故郷カタルーニャの都、バルセロナに帰り、まずはピアニストとしてグリーグのピアノコチェルト−1869年初演なので、1890年当時としては現代音楽にあたる−で、デビューしました。その後作曲に力をいれ、25歳から数年をかけた「12のスペイン舞曲集」で広く認められるようになり、”グラナドスはスペインのグリーグである”などと言われています。

エンリケ・グラナドスは、アルベニスと並んで近代スペインの偉大な作曲家であると共に名ピアニストでした。彼の作品は、いずれもロマン的なあこがれの心情と繊細な詩人の感受性を我々に与えてくれます。

アルベニスの作品と同様にグラナドスの作品は多くの演奏家によってギター曲に編曲され、当時から演奏され続けています。そのうち、ピアノのための「12のスペイン舞曲」が有名です。

有名な作品

「スペイン舞曲第2番」(オリエンタル)
「スペイン舞曲第5番」(アンダルーサ)
「ゴヤのマハ」
「詩的ワルツ集」




9.ホアキン・マラツ  (1872-1912)

スペインのピアニスト。

「スペイン・セレナータ」はギターに編曲され、美しいメロディーを持ち、多くのギタリストが演奏しえいる。

有名な作品

「スペイン・セレナータ」


10.マヌエル・デ・ファリャ Mnuel de Falla (1876-1946)

Mnuel de Falla(1876-1946)は、20世紀スペインを代表する作曲家です。一世代上の、アルベニス、グラナドスがどちらかというと「作曲家」よりも「ピアニスト」であったのに対し、ファリャは本質的に作曲家で16世紀のカベソン以来久方ぶりにスペインに現れた本格派として評価されています。ただ、当時のスペインは音楽上の長い暗黒時代の延長にあり、ファリャ自身も30歳を越えて憧れのパリに行ってから初めて本格的な音楽家としての位置を確立します。ドビュッシーは彼の才能を認めていて、P.デュカ等とともにファリャのオペラ「はかなき人生」をパリで上演することに奔走します。彼は、結局、第一次大戦が勃発する1914年まで7年間をパリですごし、充分な名声と人的コネクションを得てスペインに帰り、「恋は魔術師」「三角帽子」などの名作を生み、又、スペイン音楽界の発展に色々と尽力することになりました。

有名な作品

「三角帽子」から(粉屋の踊り)
「ドビュッシー賛歌」(ギターオリジナル)



現代

11.ホアキン・ロドリーゴ Joaquin Rodrigo (1902-1999)

ホアキン・ロドリーゴ(1902〜1999)は、20世紀スペインを代表する作曲家です。3歳の時に失明しましたが、その不幸にもめげず音楽家への道をめざしました。まず国内の音楽学校でピアノと作曲を学んだロドリーゴは25歳でパリに留学し、当時フランス屈指の作曲家だったポール・デュカスに師事。さらに34歳からの3年間はドイツで暮らしました。彼の作品が、スペイン的カラーを色濃く持つ一方で、インターナショナルな現代性をも感じさせるのは、そんな国外での体験が影響しているのかもしれません。

 そのロドリーゴの作品中、もっとも有名なものの一つが、「アランフェス協奏曲」です。題名のアランフェスとはマドリード州南方の地名で、かつてはスペイン王族の避暑地として栄えた場所でした。ロドリーゴがこの曲の作曲に着手した時期、スペインは内戦のため大きく揺れていました。その頃ドイツに住んでいた彼は、遠い異国の空の下から、古き佳き時代の故郷を思い、この曲を書いたに違いありません。1940年のバルセロナでの初演は大成功を収め、ロドリーゴは一躍一流作曲家の仲間入りを果たしたのでした。

有名な作品

「アランフェス協奏曲」(この曲はデ・ラ・マーサに献呈された)
「ある紳士のための幻想曲」 (これもコンチェルト。セゴビアに献呈された)
「祈祷と踊り」
「3つのスペイン舞曲」
「ファンダンゴ」


12.モレノ・トローバ Moreno Torroba (1891-1982)

1891年にスペインのマドリードで生まれた、作曲家、指揮者です。はじめは交響曲を作曲していましたが、後にギターやサルスエラの曲を多く作曲するようになりました。(サルスエラとは、スペインのオペラまたはオペレッタのことです。)

彼のギター作品は、アンドレス・セゴビアに捧げられ、録音されました。名手アンドレス・セゴビアとの親交によって生まれたのです。

有名な作品
  
「ソナチネ」
「特徴のある小曲集:プレアンブロ、オリベーラス、メロディーア、ロス・マヨス、アルボラーダ、パノラマ」
「カスティーリャ組曲」
「夜想曲」
「マドリョーニョス」



13.マヌエル・ポンセ Manuel Ponce (1882-1948)

Manuel Maria Ponce(マヌエル・マリア・ポンセ)は1882年12月8日メキシコ中西部サカテカス州フレシニージョにポンセ家の12番目の末っ子として生まれた。彼が生まれて僅か数週後、一家は150キロ南のアグアスカリエンテスに引っ越した。

 最初にピアノを習い始めたのは4歳の時で、最初は姉のジョゼフィーナから習ったとのこと。少年時代の彼の遊び場は市内のサンマルコス公園で、そこで流しの民謡の歌い手の演奏をよく聴いたとのこと。1892年の地元のサンディエゴ教会の聖歌隊に入った彼はめきめきと才能を現わしたのだろう。1895年にはサンディエゴ教会の副オルガニストに、1898年には正オルガニストとなった。1900年にポンセは首都メキシコシティーに住み、翌1901年1月国立音楽院に入学しピアノと和声を学ぶが、同年の12月には故郷のアグアスカリエンテスに戻ってしまった。(一説には彼にとっては国立音楽院の授業は退屈で、習うことはもう何もなかったからだとのこと!)

 その後ポンセは1905年1月イタリアのボローニャに留学、ロッシーニ音楽院で作曲を学んだ。翌年にはベルリンに移りシュテルン音楽院でリストの高弟であったマルティン・クラウゼにピアノを師事した。1908年、メキシコに戻った彼は急浙したリカルド・カストロの後任として26歳の若さでメキシコ国立音楽院のピアノ科教授になる。更に1910年には自らのピアノアカデミーを主宰し、1912年には教え子と共にメキシコ初のドビュッシーのピアノ曲全曲演奏会を催した。

 1912年暮れ、ポンセは故郷アグアスカリエンテスへ向かう夜行列車に乗っていた。車窓からの星空を眺めていた彼は、一曲の短い歌曲を作詞作曲した。それがポンセの最有名曲となった「エストレリータ」(1914年出版)である。

 1913年頃、とあるコンサートでポンセはフランス出身のコントラアルト歌手Clementina Maurelと知り合う。二人は忽ち仲良くなり、間もなく二人は婚約をしてClementinaはフランスへ戻っていった。

 1915年3月から1917年6月までポンセはキューバのハバナに移住した。時はちょうどメキシコ国内はメキシコ革命の時期で、更に国外は第一次世界大戦中で、ドイツ音楽を擁護する立場にあった彼はやむなくキューバに事実上「亡命」したようである。しかしこのキューバ滞在によって、いくつかのキューバ風味豊かな優れた曲が作られている。また1916年には彼はアメリカ・ニューヨークのエオリアンホールで自作曲のリサイタルを開いてる。この頃ポンセがフィアンセのClementinaに宛てた手紙には「いつ君は僕の所に来てくれるんだ?、いつ僕は腕の中に君を抱きしめる幸せを味わえるんだろう? 」と綿々たる愛の言葉がしたためてある。

 1917年、ポンセはメキシコに戻ることになる。ニューヨークからやってきた船にはClementinaが乗ってきたとのこと。二人にとってキューバからメキシコへの船旅はどんなに幸せなものだったでしょう!。メキシコに戻ったポンセは国立交響楽団の指揮者に任命された。また同年9月3日には晴れてClementinaとの結婚をする。結婚式では国立交響楽団がバックでワーグナー・グリーグ・マスネの曲などを演奏をしたとのこと!。妻となったClementinaは夫が作曲に専念できるよう、使用人にはゴム底の靴を履かせ、つま先歩きするように命じ、電話器やドアベルは綿で包んだ。彼女はポンセの書斎のドアの外で番をするように座っているのが好きだったとのことである。

 1918年にはメキシコ国立音楽院のピアノ科教授に再び就任。1919年にはRnben M. Camposと共に"Revista Musical de Mexico(メキシコ音楽雑誌)"の編集長にもなるなど、メキシコを代表する音楽家としての地位を固めていく。

 1923年、メキシコに演奏旅行に来ていたスペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアのコンサートをポンセは聴き、ギターの音色に彼は魅せられていく。二人は親交を深め、セゴビアはポンセに、今までクラシックでは作品の少なかったギター曲を作るように勧めた。同年ポンセはギターのためのソナタ・メヒカーナを作曲。セゴビアはこの曲をヨーロッパ中で演奏し、成功を収める。ポンセはその後もギターのための曲を次々と作り、そのことにより作曲家として国際的に有名になっていく。

 1925年、ピアニスト、作曲家として有名になったポンセは何を思ったのだろう、更に自分の作曲技法を高めようと思ったのか、43歳のポンセは妻を伴い2度目のヨーロッパ留学を果たす。パリ高等音楽院で彼はポール・デュカスに作曲を師事した。同級生にはスペインのロドリーゴやブラジルのヴィラ・ロボスがいた。デュカスはポンセに「あなたは生徒ではない。あなたは光栄にも私の音楽を聴いて下さる素晴らしい音楽家だ。」と讃えている。また、スペインの作曲家アルベニスが遺した未完のオペラ「メルリン」のオーケストレーションの仕事をデュカスはポンセに勧め、彼はこの仕事を引き受けた。(オーケストレーションが仕上がったのは1938年のことである。)パリ留学中のポンセは経済的に厳しかった。そのため妻のClementinaは1928年、一人メキシコに帰り、コンサートを行い夫の収入を助けた。ポンセがヨーロッパに住んだおかげでセゴビアとの交流はますます深まっていった。セゴビアが1928年頃、日本や中国に演奏旅行した時の演奏会のプログラムにはポンセのギター曲が含まれている。貧しい環境の中、ポンセは音楽院に通い、作曲をし、「メルリン」のオーケストレーションを続けた。1930年にはClementinaがパリに戻り、再び二人は一緒になる。1932年7月、ポンセはパリ高等音楽院を卒業した。卒業に際し、デュカスはポンセに10点満点の30点!を付けたとのことである。

 1933年にポンセはメキシコに戻る。メキシコへの船にはセゴビアも同道していたとのことである。ポンセはメキシコ国立音楽院の院長とピアノ科教授を務め、またメキシコ民族音楽の講議も行った。また彼のオーケストラ作品も演奏される機会が増え、1934年11月にはニューヨークのカーネギーホールでストコフスキー指揮、フィラデルフィア交響楽団の演奏でポンセの作品が演奏されている。

 セゴビアはポンセがパリに留学していた頃より、何度となくギターと管弦楽のための協奏曲を作曲してくれるよう頼んでいた。1941年1月、セゴビアが十余年待ち続けていた「南の協奏曲」が遂に完成。同年10月4日、ギターと管弦楽のための「南の協奏曲」はポンセ臨席のもと、セゴビアのギターによりウルグアイのモンテビデオで初演され、大成功を収めた。更に1943年にはヴァイオリン協奏曲がヘンリーク・シェリングのソロ、チャベスの指揮により初演された。

 1948年2月26日、メキシコ大統領ミゲル・アレマンより「1947年度芸術科学国家賞」を音楽家として始めて受賞した。同年4月24日、メキシコシティーにて尿毒症により65歳で他界。翌1949年、国立芸術院のホールは"Sala Manuel M. Ponce"と命名された。

 ポンセの作品を概説すると、管弦楽曲ではEstampas nocturnas(夜の印象)(1923)、Ferial(祭り)(1940)などがある。協奏曲では、リストの影響の強いピアノ協奏曲(1910)、セゴビアのために書かれたギターと管弦楽のための「南の協奏曲」(1941)、ヴァイオリン協奏曲(1943)がある。室内楽曲では弦楽四重奏曲などがある。器楽曲ではチェロソナタなどがあるが、彼の主要作となるのがセゴビアに会ってから次々と作られたギター曲で、ギターのためのソナタやソナチネ、24の前奏曲など多数ある。珍しいのがギターとハープシコードのためのソナタや前奏曲で、でもギターの音量を考えてみればハープシコードとの取り合わせはとてもよいと思う。そのほか歌曲も多数作っていて、あの有名なエストレリータは色々な楽器用に編曲されているので、原曲が歌曲であることを忘れられてしまいそう。


有名な作品

「エストレリータ」
「南のソナチネ」

「3つのメキシコ民謡」
「ソナタ第三番」
「前奏曲集」
「スペインのフォリアによる変奏曲とフーガ」
「ソナタ・メキシカーナ」
 


14.ハイトール・ヴィラ=ロボス Hitor Villa-Lobos (1887-1959)

ブラジルを代表する作曲家で、ギターとチェロをたしなんだが、音楽家としてはチェロ奏者として活動していた。クラシック音楽はバッハ以外は馴染めず、ブラジル特有のポピュラー音楽ショーロを愛した。そのため、彼の作曲にはショーロの作品が多い。

最初の妻、ルシリアの影響でピアノにも興味を持ち、正当なクラシック音楽を学びたいとアカデミアの門を叩いたが受け入れてもらえなかった。しかし、その後、高名なピアニスト、ルイビンシュタインとの交流もあり、作曲活動に励み、ピアノ、管弦楽、オペラなどの作品を書き、やがて好評を得るようになった。

ギターではヴィラロボスの初期の作品が多く、ショーロを基本にした曲が多い。

有名な作品

「前奏曲集 No.1〜5」
「ショーロース1番」
「練習曲集」
(セゴビアのために献呈された)



15. マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)

マリオ・カステルヌォーヴォ=テデスコ(1895-1968)は、ユダヤ系イタリア人であったために、数々の苦難があった作曲家です。イタリアから、アルゼンチン、アメリカと移り住みました。アメリカでは映画音楽を多くてがけたようです。

ギター曲では、2曲の「ギター協奏曲」、ソナタ「ボッケリーニ讃」、イタリアの陽気さを感じる小品「タランテラ」、パガニーニを讃えた「悪魔のカプリッチョ」、朗読とギターの「プラテロと私」など数々の名曲を残しています。彼はギターが弾けないので、セゴビアが校訂してない楽譜は弾けたもんじゃありません。

ギター以外の作曲もしていますが、あまり演奏されることはないようです。

有名な作品

「ギター協奏曲」
「ソナタ「ボッケリーニ讃」」
「タランテラ」
「悪魔のカプリッチョ」
「プラテロと私」




16.ホアキン・トゥリーナ Joaquin Tulina (1882-1949)

有名な作品

「ファンダンギーリョ」
「セビリャーナ」
「タレガ賛歌」
「ソナタ」



17.アグスティン・バリオス・マンゴレ Agustin Barrios Mangore (1885-1944)

1885年パラグアイに生まれ、1944年エルサルバドルで没した。
20世紀前半の最も偉大なギター名演奏家兼作曲家であった。

バリオスは、ギターのショパンと良く称されるが、その音楽はヨーロッパにおける"貴族性" ではなく、高貴で純粋なものを秘めながらも万人に親しめる庶民的な性格に特徴がある。楽しく魅力的な曲、また、繊細でロマンティックな曲が多く残されている。バリオスの作品は以下の3つの型に分類される。

 古典的な中南米の音楽
 南アメリカ、特にパラグアイのポピュラーで民族的な独特な主題を使い、それらのリズムやメロディーが持つ土着の精神を失うことなく芸術作品に高めた。

 新ロマン主義的音楽
 バリオスのロマンティシズムは、愛情・やさしさ・人間の感情に対して障壁となるものを打ち砕く力がある。それは世俗的な領域を超えて普遍的な愛となる。南米の数々の川、鳥のさえずり、木々のささやきを連想させる曲が多い。

 ヨーロッパ風音楽
 ヨーロッパの作曲を全てマスターした上でのガボット、メヌエット、ワルツなどはフランス的雰囲気を持っているが、独特のメロディは彼独自のものである。バッハの曲が底流にあったことは言うまでもない。


有名な作品

「過ぎ去りしトレモロ」
「森に夢見る」
「フリア・フロリダ」
「ワルツ3番」
「ワルツ4番」
「悲しみのショーロ 」
「大聖堂」
「パラグアイ舞曲1番」




18.アレクサンドル・タンスマン Alexandre Tansman (1897-1986)

ポーランドに生まれ、ワルシャワ音楽院卒。1919年ワルシャワ作曲コンクール2曲出品し、第1,第2位。パリに移住。ピアニスト、指揮者としてヨーロッパ、米各地を旅行。1933年来日。1941-46年アメリカ亡命。映画音楽多い。オペラ「La Nuit Kurde」等。

有名な作品

組曲「カヴァティーナ」


19.アントニオ・ラウロ Antonio Lauro (1917-1986)

ベネズエラ生まれ。

有名な作品

「4つのベネズエラ風ワルツ No.1,2,3,4」


20.レオ・ブローウェル Leo Brouwer (1939-)

キューバ生まれ。

有名な作品

「黒いデカメロン」
「舞踏礼讃」

「11月のある日」
「ソナタ」
「キューバの子守唄」



21.アストル・ピアソラ Astor Piazzolla (1921-1992)

1921年1月30日、アルゼンチンのマル・デル・プラタで生を受け、92年にブエノスアイレスで死去。今さら言うまでもなくアルゼンチン・バンドネオン奏者の権威である。
バンドネオン――このアコーディオンに似た楽器とタンゴ(ひいては"タンゴ・ヌーヴォ"と呼ばれるニュー・スタイル)を世界に広めると同時に、ブエノスアイレスにある労働者階級向けのダンスホールや波止場のナイトクラブで自身のルーツを忘れることなく着実に活動。その人生の悲喜こもごもを呑み込んだような調べは、激しい政治紛争や伝統主義者の反感を乗り越えて活動を続けた彼の強靭な精神力そのもの――といえるのでないだろうか。
幼少の頃にN.Y.に移住し、13歳にしてクラシカル・タンゴの王様、カルロス・ガルデルに才能を見出されて以来、母国音楽への可能性を追求し続けた。


有名な作品

「アディオス・ノニーノ」
「タンゴ組曲」
「タンゴの歴史」(フルート&ギター)
「ブエノスアイレスの四季」




22.アンドリュー・ヨーク Andrew York (1958-)

アメリカ生まれ。日本人ギタリストへの献呈も多く、作曲家兼ギタリスト。ロスアンゼルス・ギター・カルテットの一員としても活躍している。

有名な作品

「サンバースト」
「エマージェンス」
「ララバイ」



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